昭和とは遠きにありて思ふもの

音楽と旅が好きなおっちゃんが、気ままに書いています。

恋のぼんちシート

1980年代は、バブル真っ只中の頃だったと思う。
地上げという問題が出ていたし、学生の就職は売り手市場だった。
みんなが、いわゆるDCブランドに走り、高級車を乗り回し、みんながタクシーを使うためなかなか拾えないような状況だった。
テレビではトレンディドラマが放映されていた。
トレンディドラマは、高級住宅地や高級マンションに暮らし、医者や、パイロット、デザイナーなどのいわゆるカタカナ職業をしており、喫茶店ではなくカフェバーという、これもカタカナ店舗というべきか、に通い、設定されている登場人物が、要は現実離れしていた。

12-Bar\"13\"『ラブ・ストーリーは突然に 』 TRICERATOPS with 小田和正


「男女7人夏物語」

「東京ラブストーリー」
は特に記憶に残っている。


今でも、「チャチャチャーン」というギターの音で始まるテーマ曲は、脳裏に焼き付いている。


今の韓国ドラマがその流れを引き継いでいるのではないか、と思うことがある。


出演者には、
明石家さんまさんや
、いわゆる
「W浅野」
と呼ばれていた
浅野ゆう子
さんや
浅野温子
さんなどもいて、ドラマを放映していたテレビ局との絡みから
「ふじっこ」
と呼ばれていた。


私の20代から30代の時期だった。


会社からは
「ポケベル」
なるものを渡され、電波の届くところであればどこでも呼び出され、会社に定期的に確認の電話を入れる不自由さはなくなったものの、常に監視されているようで、却って不自由さを感じたのを覚えている。


80年代初頭、「笑っていいとも」の前にやっていた番組が、同じ「スタジオアルタ」
笑ってる場合ですよ!100回記念大会 OP (1981年2月)


生中継されていた番組
「笑ってる場合ですよ!」
だった。


B&B
のお二人が司会を務めたこの番組は、実は当時視聴率が低迷していたフジテレビの上司が「笑っている場合ではない。」と言った発言から横澤彪(よこざわたけし)プロデューサーが命名した。


横澤さんは
「漫才ブーム」
の仕掛人であり、のちに吉本興業東京本社社長に就任するなど尽力され、現在の東西の漫才の融合はこの人なしにはあり得なかったのではないかと、私は勝手に思っている。


この番組からは、B&Bの他、
ツービート

紳助・竜介、「ツクつくぼーし」
と叫びながら変な腰の動きをするのりお・よしお、春風亭小朝、九十九一などそうそうたるメンバーが出演していた。


そんな中から、あの日本武道館を満席にして単独でコンサートを開催した最初の漫才師
ザ・ぼんち 恋のぼんちシート (1981)



、「ザ・ぼんち」
のお二方である。


1981年に
「恋のぼんちシート」
という曲を発表した。


これはオリコン初登場二位、80万枚という離れ業をやってのけた。


直接コンサートに行った訳ではないが
、「今日、耳日曜」、「潮来の~あれー」、
テレビ朝日系列でお昼に放送されていた
「アフタヌーンショー」
から出た
「そうなんですよ!」
などが、武道館全体を笑いに包んだことだろう。


漫才ブームは、二年ほどで終焉したが、そのメンバー達はその後、コントや番組の司会、ドラマ出演など、姿を変えてその才能を花開かせていった。


ザ・ぼんちの
おさむ
さんはテレビ朝日系列の
「はぐれ刑事純情派」
で俳優としても活躍された。


「笑ってる場合ですよ」で司会を務めた、
島田洋七
さんは、その後
「がばいばあちゃん」
という本を出した。


洋七さんは、もともと広島市の生まれであるが、小学校1年生の時に佐賀のおばあちゃんに預けられる。


野球のため広島の広陵高校に進学するまでの8年間を過ごしたときのエピソードが綴られている。


がばい
=佐賀県の方言で「すごい」という意味である。


その名言エピソードの中にこういうのがある。


人生は山あり、谷ありって言葉の意味を知っとるか。
頂上で記念写真撮ったら、降りてきんしゃい。
山はずっといるところじゃなか。家も川もみんな
谷にあると。冷たか水飲んで、もう一度山に
挑戦しんしゃい。


島田洋七の「佐賀のがばいばあちゃん」予告

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